産学連携から市民と学の連帯へ
共通講座 丸 山 博
公害,環境問題の歴史は権力側,加害側による原因究明の妨害の歴史でもあります。水俣病,イタイイタイ病,チェルノブィリ原発事故,「環境ホルモン」問題などの環境破壊=人間破壊の過程をみても,被害の拡大を招いたのは,その結果といえます。今日,独立行政法人化,産学連携の推進など,大学や研究が経済的効率性から方向づけられようとしていますが,公害,環境問題において研究者の果たした役割を社会的,歴史的に検討すると,被害者や市民と研究者との連帯が求められます。
1959年,東工大清浦教授は熊本大学医学部水俣病研究班の有機水銀説を批判してアミン説を発表し,有機水銀説を否定するチッソとそれを黙認する国に加担しました。そのほか,九州大学遠城寺教授や東大医学部田宮教授など,多くの研究者がチッソや国を擁護してきました。一方,それらに与せず,真相の究明と患者の救済の立場を貫く研究者もいました。原田正純熊本大学医学部助教授は地域をくまなく歩き,患者と徹底的に向き合うことによって,水俣病患者の発見,水俣病の病像の確立,水俣病患者の救済など水俣病の解決に尽力しました。原田は自身も含めて水俣病にかかわった専門家の言動をふり返り,次のような傾聴すべき意見をのべています。(1)患者の生活実態を通じて,水俣病の障害をみると,単に身体的な機能障害(神経科的立場)の一面からみただけでは,その実態は十分に明らかにしえず,精神をもった人間としてのトータルの機能の障害をも加えたものでなければならない。(2)水俣病の歴史は弱者の視点が欠落すると,政治や学問,そして世論までもが過ちを犯すことを示唆している。医学も技術も全ての学問が弱者の立場に立つことを要請されている。(3)専門家は常に風通しをよくして,素人といわれる人のもつ知識から普遍的な問題をとらえ,理論化し,実証していかねばならない。こうした原田の主張は,研究とは総合的視点,社会正義を踏まえ,市民的立場を内部化したものでなければならないとして,実践的課題に直面した研究のあるべき姿を示したものといえ,その後の問題の歴史においても確かめられます。
1968年,イタイイタイ病は水俣病より4カ月早く,公害病に認定されました。萩野昇医師が患者の発生地域と三井金属鉱業神岡鉱業所の位置などを総合的にとらえ,鉱毒のカドミウム原因説を唱えてから,11年後のことでした。萩野はその間,政府や学会から金目当ての売名行為であると中傷されながらも,小林純岡山大学教授らとともに三井の圧力に屈することなく真実を明らかにしたのです。ところが,76年,自民党の環境部会を中心にイタイイタイ病とカドミウムとの関連を否定する動きが出はじめ,やがて重松逸造放射線影響研究所理事長や野見山一生自治医大教授らがそうした意図に基づく研究に着手し,世界保健機構(WHO)にカドミウム説の見直しを提起しました。荻野は病床でそのことを知ると,次のように語り,息をひきとりました。「経済では世界一といわれている日本。政治と医学の貧困さは一開業医の力ではどうすることもできない大きな壁。しかし,私は一歩たりとも退かない。命のあるかぎり,呼吸をしているかぎり,血液の最後の一滴を燃え尽くしてでも,真実を語りつづけよう。真実なんだから。自民党−環境庁−三井金属からなる利害共同体に加担した重松,野見山らの野望は,しかし98年5月,市民と研究者との共催による国際シンポジウムにおいて粉砕されました。市民と研究者との連帯が歴史の歪曲を阻止したのです。
1986年4月26日,ソ連のチエルノブィリ原発4号炉が未曾有の大爆発を起こし,地球規様の放射能汚染をもたらしました。4カ月後,ソ連は国際原子万機関(IAEA)の会議で事故の報告を行い,原因を運転員の規則違反とし,原子炉の欠陥には触れませんでしたアレクサンドロフ科学アカデミー総裁をはじめ多くの研究者が国に従属し,原発による電力供給体制の維持を優先したからです。またイタイイタイ病のもみ消しに奔走した重松逸造は,90年,IAEA国際チェノブイリ計画の委員長として,ソ連の住民健康調査が60万人の事故処理作業者を対象外としていたにもかかわらず,「妥当であり,汚染地域の住民の間に放射線障害は認められない」と結論づけ,被害の矮小化に協力しました。原子力資料情報室の高木仁三郎博士は,チェルノブイリ以降も頻発する原発事故について,「市民や他の生き物たちの立場に立ってものを考えるという視点が現代科学技術の開発の現場にはまったく欠落していることに根本の問題がある」とのべ,原子力問題を環境,人権,平和の視点からとらえ,体制維持の科学に対するオルタナティーブな科学として市民の科学の確立こ生涯を賭けました。地球規模の環境問題においても,真実の解明と被曝者の救済は,権力に立ち向かい,NGOと連帯したジャーナリスト,研究者らによって進められているのです。
1998年5月15日,朝刊各紙に,「カップめんの容器は環境ホルモンを出しません」という全面意見広告が出されました。それは,同年2月,市民団体の日本子孫基金によってカップめん容器からの「環境ホルモン」の検出が明らかにされ,売り上げの低下を懸念した日本即席食品工業協会の反論でした。その後,市民団体の再実験によって「環境ホルモン」の検出が確認されると,業界は新製品の容器をスチロールから紙へと変更せざるを得ませんでした。また中西準子横浜国大教授や安井至東大教授が,国や企業にダイオキシン規制を求める世論に対して,「もっと冷静に」とか「厚生省を信じなさい」などといって,問題の解決を妨害しましたが,「止めよう!ダイオキシンネットワーク」など市民団体の研究,調査などによって,ダイオキシン規制が実現しつつあります。「環境ホルモン」の発見者シーア・コルボーン博士は,かつては環境保護の活動家であり,現在はWWFの科学顧問として,「野生生物や将来世代など言葉をもたない者たちのために働きたい」とのべています。コルボーンは51歳にして大学院に入り,五大湖地域の野生生物や人間の異変に着目し,生物学,内分泌学,神経科学,発生学などを総合して,「環境ホルモン」という新しいパラダイムを発見したのです。「こういう研究に資金援助してくれる人はいません。私たちの研究によって何かがわかったとしても,経済的に得をする人がいないからです。」コルボーンのこの言葉こそ,市民と学の連帯の必要性を指摘し,大学や研究のあり方を示唆するものといえましょう。
参考文献
(1)原田正純『水俣病』岩波書店,1972
(2)原田正純『裁かれるのは誰か』世織書房,1995
(3)川名英之『ドキュメント日本の公害・第1巻』緑風出版,1987
(4)七沢 潔『原発事故を問う』岩波書店,1996
(5)高木仁三郎『市民の科学をめざして』朝日新聞社,1999
(6)マイケル・スモーレン他『環境ホルモンから子どもを守る』コモンズ,1998
(7)シーア・コルボーン他『奪われし未来』翔泳社,1997
(まるやま・ひろし)