みずもと第17号(2003.7)

永続性ある「知性アーカイブ」を保持する図書館への期待

機械システム工学科 三品 博達


 私が印刷という古めかしく聞こえる産業との関わりを持って20年近くを迎え、技術的発展過程のみでなく、否応なく産業の過去と未来に直接関連する文化的側面からも考えさせられる機会が多くなってきております。

 古代から人類は書き残すことに非常な執着を持っていたように見えます。書き残すことは自己存在の証しであり、文字情報としての記録は自己表現の客観化への過程であり、やがて文明と文化の記録へと発展してきたように思えます。ドイツのマインツにあるグーテンベルグ博物館には、15世紀半ばに創始された鋳造活字による活版技術を使った聖書の初期の印刷物と、この印刷に使われた印刷機械が展示されています。書籍の出版のための大量複製技術の出発点としてあまりにも有名です。

 その後、書籍としての形態は、文化、科学技術の伝承の道具として絶え間なく改善され、知的な資産として膨大な蓄積となりました。一方、人間の社会活動の広域化に伴い、印刷技術はマスメディアの道具として、活字を通じての情報伝達に新聞という形態で威力を発揮してきました。日本国内での日刊新聞の始まりは明治の初期(1870年)にまで遡り、現在の形態での新聞の歴史は130年にもなります。技術の進展は紙面の構成や紙面数という面での変化はありますが、基本的な形態に大きな変化はありません。ラジオ放送が即時的な情報メディアとして一般に普及し始めるのは1940年代後半,テレビジョン普及は1960年代、デスクトップ計算機は1980年代、インターネットは1990年代半ばです。

 印刷産業ではこれらのエポック毎に紙メディアの存続の危機が論じられてきました。「ラジオの普及は新聞の情報伝達価値を低下させる」、あるいはテレビ放送の普及は新聞メディアへの依存を断ち切るのではないか」、「電子メディア(FD,CD等)による電子書籍が印刷された本としての書籍に置き換わるのではないか」、さらに「インターネットの情報蓄積・検索性と拡散性が書籍を不用のものとするのではないか」等々です。

 しかし、技術的利便性や経済論理(環境経済性を含めて)からなされた全てのこれらの予測はほとんどすべてはずれてしまいました。コンピュータ映像と画像の処理性能が向上して、書籍の内容を電子メモリに格納して読み出す、1990年代後半の電子書籍の試みは最も書籍に近い形への挑戦でありましたが、現在この形の電子書籍に触れることはほとんどありません。電子書籍の最大の敗因は、紙メディアの特性の人間親和性を見過ごしていた点にあるようです。

 技術予測は、技術開発の立場からではなく、人間の特性への親和性からなされるべきでしょう。携帯電話の爆発的(過去の技術開発物の普及度合いからするとまさに超新星誕生にも匹敵する)浸透は、現代文明社会のもつ人間の隔絶・孤立と人間が本来持っていた連帯欲求を仮想的にも埋め合わせる道具として、表層的な満足感を満たしたためではないでしょうか。この欲求の満足は、決して人間の根元的な知性の欲求を満たすものでないことは次第に感じ取られ始めているのかもしれないと私は考えます。

 幼児用の絵本はテレビアニメが氾濫しても依然健在ですし、ビデオ教材が普及しても教科書への信頼性は衰える様子がありません。情緒と知性の醸成に最も効果的で安心感を得られる対象から人は抜け出すことは出来ないでしょうし、抜け出す必要もないのではないでしょうか。利便性は情緒と知性を生み出す補助材であり、利便性そのものが最終目的ではないことがもっと認識されるべきではないでしょうか。

 さらに高次の知的欲求を満たす道具として、書籍が担ってきた役割と同等の役割を携帯電話が果たせると考える人はいないのではないでしょうか。携帯電話を例にとると、何を当たり前のことをとの反論が聞こえて来そうですが、では「電子ジャーナルではどうですか?」「ビデオ教材はどうですか?」あるいは「最近はやりのビデオ機器利用の遠隔講義はどうですか?」と問いかけると即座に答えられ人は少ないのではないでしょうか。

 ちなみに、書籍の寿命は、短命とされる酸性紙(1980年代までは書籍の用紙として主流)でも30年程度は十分使用に耐えます。非酸性紙では数百年にわたって書籍として保存できるともいわれています。最近ディジタル保存は変質もなく保存の安定性が良いとの喧伝がされ、デジタルアーカイブ(読み出し可能な保存版)が推奨される傾向もあります。しかし、伝送の便宜さを中心に据えた技術に基づく喧伝が真実かどうかを冷静に考える必要がありそうです。デジタルアーカイブは、やはり固定するメディアを必要としますし、解読の道具も必要です。初期に用いられたマグネットテープに記録された画像情報(わずか10数年前の最新技術であった)はすでに現場で読み取ることはほとんど不可能となっています。現在ビデオ撮影した画像や音声は現在CD-ROMあるいは大容量ハードディスク等に保持されています。デジタルテレビジョン放送が開始され、テレビジョン規格が根底から変更され、ビデオ機器も大きく変わったとき、現在の蓄積された膨大な画像(個人のアーカイブデータを含めて)を再生する手段は保証されるのでしょうか。10年前のマグネットテープ記録画像が消え去った教訓を忘却のかなたに押しやることなく、知性の忘却に繋がる危険性を察知する知恵を持つ必要がありそうに感じます。

 図書館の役割は、流れゆく情報を便利に流す通過点であると同時に、過去の歴史をひもとき、時代の流れを冷静に見返る材料を提供する真のアーカイブの停留点でもあってほしいと願うのは私だけでしょうか。

 人との親和性が直接的な手段で実現できることの安心感が図書館にあり、心理的知性の安心感の拠り所としての意義を主張し続けることと、現在の殺伐とした競争原理のみが最優先させられる社会風潮に、人間の存在の意義を改めて考え直す冷静さと沈着さの拠点となる真の知性の宝庫として図書館が存在し続けることへの期待を抱くのは私だけなのでしょうか。

(みしな・ひろみち)